小泉八雲の生涯

The Life of Lafcadio Hearn

小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)

Lafcadio Hearn, 1850-1904

1891年、初めての日本の正月を松江で迎えた着物姿の八雲

パトリック・ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、1850年6月27日にギリシャ西部のレフカダ島で生まれました。父チャールズはアイルランド出身の軍医、母ローザはギリシャ・キシラ島の出身です。アイルランドは当時まだ独立国ではなかったので、ハーンはイギリス国籍を保有していました。

2歳の時にアイルランドに移り、その後イギリスとフランスでカトリックの教育を受け、それに疑念を抱きます。16歳の時、遊戯中に左目を失明。19歳の時、父母に代わって八雲を養育した大叔母が破産したことから、単身、アメリカに移民。赤貧の生活を体験した後、シンシナティでジャーナリストとして文筆が認められようになります。その後、ルイジアナ州ニューオーリンズ、さらにカリブ海のマルティニーク島へ移り住み、文化の多様性に魅了されつつ、旺盛な取材、執筆活動を続けます。ニューオーリンズ時代に万博で出会った日本文化、ニューヨークで読んだ英訳『古事記』などの影響で来日を決意し、1890年4月に日本の土を踏みます。

同年8月には松江にある島根県尋常中学校に赴任し英語教師に。さらに熊本第五高等中学校、神戸クロニクル社の勤務を経て、1896年9月から帝国大学文科大学講師として英文学を講じます。1903年には帝大を解雇され、後任を夏目漱石に譲り、さらに早稲田大学で教鞭を執ります。

この間、1896年には松江の士族の娘、小泉セツと正式に結婚し、日本に帰化。三男一女に恵まれます。著作家としては、翻訳・紀行文・再話文学のジャンルを中心に生涯で約30の著作を遺しました。

1904年9月26日心臓発作で54歳の生涯を閉じます。

年譜

1850—1852

ギリシャ

0歳

6月27日、ギリシャのイオニア諸島・レフカダ島で、アイルランド人で英国陸軍軍医補の父チャールズ・ブッシュ・ハーンと、ギリシャ人でキシラ島出身の母ローザ・アントニウ・カシマチの次男として生まれる。パトリキオス・レフカディオス(パトリック・ラフカディオ)と命名される。

1852—61

アイルランド

2歳

8月1日、母子はギリシャからマルタ経由で、父チャールズの実家があるダブリンに到着する。その後まもなく、祖母エリザベスの妹で資産家の未亡人サラ・ブレナンに引き取られる。

3歳

10月、父が任地グレナダから帰還、初めて対面する。

4歳

父がクリミア戦争に従軍するためダブリンを離れると同時に、懐妊中の母は実家のあるキシラ島へ帰る。大叔母サラ・ブレナンのもとで生活し、時々ウォーターフォード州のトラモアやメイヨ―州のコングを訪れる。弟ジェイムズがギリシャで生まれる。

7歳

1月、父母が離婚。8月、父は再婚相手のアリシア・ゴスリン・クロフォードとその娘2人を伴い、インドへ赴任。

11歳

フランスの教会学校に入学しフランス語を身につける(フランス留学の時期と場所には不明な点が多い)。

1863—68

イギリス

13歳

9月、英国ダラム市郊外のアショーにあるカトリック系の学校セント・カスバート・カレッジ(全寮制)に入学。厳格な宗教教育に反発を覚える。

16歳

学校で友人と遊戯中に事故に会い、左目を負傷し失明する。11月21日、父チャールズがマラリアに罹り、帰国途中船中で息を引き取る(享年48歳)。

17歳

遠縁にあたるヘンリー・モリヌーが投機に失敗し、これに出資していたブレナン夫人は破産し、アショー・カレッジの中退を余儀なくされる。

1869—1877

シンシナティー

19歳

ロンドンまたはル・アーブルから移民船に乗りアメリカに渡る。9月初旬ニューヨークに上陸し、親戚を頼ってシンシナティに行く。印刷屋を営むヘンリー・ワトキンと出逢い、仕事を教わる。終生、ワトキンを父のように慕う。

20歳

頻繁に公立図書館に通い、物語を書いて楽しむ。ボストンの週刊誌に投稿するようになる。

21歳

1月、サラ・ブレナン死去。送金されるはずの遺産500ポンドが届かず、アイルランドの親戚と縁を絶つ。

22歳

出版社で働く傍ら寄稿を続け、11月にはシンシナティ・エンクワイアラー社の主筆であるジョン・コカリルに文才を認められる。

24歳

シンシナティ・エンクワイアラー社の正式社員となる。6月、挿絵画家ファーニーとともに週刊誌「イ・ジグランプス」を創刊する。皮革製造所で起きた惨忍な殺人事件のルポを書き、事件記者として一躍名をあげる。また、同じ記者仲間のヘンリー・クレビールとの親交を深める。

25歳

6月14日、下宿の料理人アリシア・フォリー(マティ)と結婚。当時、異人種間婚姻は違法とされていたため、7月末、エンクワイアラー社を解雇され、シンシナティ・コマーシャル社に移る。

1877—87

ニューオーリンズ

27歳

マティとの結婚生活は破たん。コマーシャル社を退職し同社通信員となり、メンフィスを経由してニューオーリンズに到着する。その後「デイリー・シティ・アイテム」紙の準編集者の職を得る。

28歳

「アイテム」紙で健筆をふるう。3月、なんでも5セントの小さな食堂「不景気屋」を開業するが、相棒に売上金を持ち逃げされ、わずか20日間で閉店。

30歳

文名も上がり、5月から翌12月にかけて「アイテム」紙に挿絵記事を書き評判となる。同時に「デモクラット」紙にも寄稿するようになる。

31歳

12月、「タイムズ=デモクラット」紙の文芸部長として迎えられ、編集長ペイジ・ベイカーの理解を得て、自由なテーマでの執筆に専念。

32歳

4月、翻訳集『クレオパトラの一夜とその他幻想物語集』を自費出版。
12月12日、コルフ島の病院にて母ローザが永眠する(享年58歳)。この頃、エリザベス・ビスランドがハーンの記事を読み、タイムズ=デモクラット社に入社。

34歳

6月27日、『異邦文学残葉』を出版。
8月末から1カ月余り、ビスランドらとメキシコ湾内のグランド島に滞在する。12月16日、ニューオーリンズ万国産業綿花百年記念博覧会が開幕する。

35歳

1〜2月、博覧会の執筆作業に忙殺される。特に日本館の展示品に興味を引かれ、日本政府から派遣されていた服部一三と出会う。
4月上旬、『ゴンボ・ゼーブ』『クレオール料理』『ニューオーリンズ周辺の歴史スケッチと案内』を出版。
ハーバート・スペンサーの『第一原理』を読み、思想的に大きな影響を受ける。

37歳

2月24日、『中国霊異談』を出版。

1887—90

マルティニーク
ニューヨーク

37歳

5月31日、タイムズ=デモクラット社を退社。7月、カリブ海のマルティニークへ取材旅行に出かけ約2カ月滞在する。10月2日、再びマルティニークに向かい2年間滞在する。

39歳

9月27日、小説『チータ』を出版。
実弟ジェームズ・ハーンから始めて手紙を受け取る。

40歳

3月11日、『仏領西インド諸島の二年間を出版。

1890—1904

日本

40歳

バンクーバーから日本に向けて出港し、4月4日、横浜港に到着。
5月12日、『ユーマ』を出版。
6月、ハーパー社への不満が募り絶縁状を送る。7月19日、島根県尋常中学校及び師範学校の英語教師となる契約を結ぶ。8月下旬、赴任先の松江へ出発。9月、出雲大社に参拝し外国人として初めて昇殿を許される。

41歳

1月1日、羽織袴の正装で年始回り。身の回りの世話をするために小泉セツが雇われる。6月22日、北堀町の根岸邸 (現在の旧居)へ、セツとともに転居する。8月下旬、日本海沿いに鳥取県への旅をする。チェンバレンの紹介で熊本の第五高等中学校への転任を決意し、11月、セツと養父母らを伴い松江を出発。

42歳

セツと一緒に4月に博多へ、7月には関西や山陰、隠岐へと大旅行する。

43歳

4月、セツの懐妊を知らされ、帰化を考え始める。11月17日、長男・一雄が誕生。

44歳

1月、第五高等中学校において「極東の将来」と題して講演する。
9月29日、日本に関する最初の著書『知られぬ日本の面影』(上下2巻)を出版。
10月6日、神戸クロニクル社転職のため熊本を離れ、神戸に転居。

45歳

1月30日、神戸クロニクルを退社する。
3月9日、『東の国から』を出版。
12月、帝国大学の外山正一から、英文学講師として招聘する意思を伝えられる。

46歳

2月10日、帰化手続きが完了し、「小泉八雲」と改名。
3月14日、『心』を出版。
9月2日、帝国大学英文学科講師の辞令発令になり、上京する。

47歳

2月15日、二男・巌が誕生。3月15日、西田千太郎が病没(享年35歳)。8月、海水浴の好適地を探して焼津へ。以後毎夏のように避暑に出かける。
9月25日、『仏の畑の落穂』出版。

48歳

8月10日、長谷川書店から日本お伽噺シリーズ(ちりめん本)『猫を描いた少年』を出版。
11月頃から一雄に英語教育を始める。
12月8日、『異国情緒と回顧』を出版。

49歳

9月26日、『霊の日本』を出版。
12月20日、三男・清が誕生。
日本お伽噺シリーズ『化け蜘蛛』を出版。

50歳

1月3日、エリザベス・ビスランドとの文通を再開する。3月、外山正一が死去しこれにより大学内で孤立していく。
7月24日、『影』を出版。

51歳

9月24日、次男・巌をセツの養母・稲垣トミの養子にし、戸籍を移す。
10月2日、『日本雑記』を出版。

52歳

3月19日、市谷富久町から 新宿区大久保の新居に移る。
10月22日、『骨董』を出版。
11月、ビスランドを通じてアメリカのコーネル大学での連続講義を依頼される。

53歳

1月15日付、東京帝国大学学長・井上哲次郎名で、解雇通知を受け取る。3月、英文科の学生数名が八雲の留任を請うが、結局3月31日、東京帝国大学講師を辞す。
9月10日、長女・寿々子が誕生。しかし体調に不安を覚える。
日本お伽噺シリーズ『団子をなくしたお婆さん』を出版。

54歳

2月、早稲田大学講師として招聘され、3月9日より出勤する。
4月2日、『怪談』を出版。
9月1日、午後3時、心臓の発作が起きる。26日、再び心臓発作をおこし午後8時過ぎ息を引き取る。30日、市谷富久町の円融寺で葬儀が営まれ、雑司ケ谷の墓地に葬られる。
9月、『日本―ひとつの解明』が出版される。